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伊藤史朗の随想録

今年2回目の 鈴鹿サーキットの森の中での TRIALが おわって。2002 ,1
196312suzuka.jpg
ヘアーピンを抜けて デグナーに向かうレーサーのフリー走行を見物していたら 眩暈がしてきた、 
速過ぎて 私の動態視力では、追いきれないのです。
だから 私は帰り道 グランドスタンド手前の シケイン付近で、ボーット眺めていた

あの1963年 J.レットマンを P.リードと共に追い詰める、空色のヘルメット!
胃の腑が喉まで、上がって来るような、最終コーナーの勝負,
日本GP 1位は ホンダ4気筒の レットマンだったが・・・
コンマ 1秒差で 2位YAMAHA 伊藤シロウ 「史朗,ふみお」
「当時はこの方か、通りが良った」

1963 11 10,15万人の観衆でうまった鈴鹿は、イトウシロウの 大健闘に沸いた,

そして大多数のフアンは その後  伊藤 史朗を見た事は無いだろう,私もその一人だが。
このシケインが当時あったら・・・・勝負はどうなってたか?
その後の浮谷東次郎、や 渥美勝利の事故も無かっただろうな〜 とふと思った。 

その1963年 伊藤 史朗はWGP 12戦中5戦しか出ていないのにポイント25点で
世界3位になっていた,  のに・・・・・ その後視界から消えた1963last.jpg

伊藤静男

戦後の昭和28年 1953 名古屋TTと言うレースがあった

私が高校を卒業した年で、 まだ自転車すら買えない頃の話です。
今でも 名古屋TTを懐かしむ人達が、 年に1回 当時のコースを
ツーリングするイベントが続いている。
資料を見ると「全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード」と言う
奇妙な名前になっている

行程233km 国道 村道含めた公道ばかりのレースを計画しても、
そのすじのお許しが出るわけが無い、 
で レースが「パレード」と言う事に変えられた?

とりあえず 市内通過速度は 20〜30km/h となっていたのに、
優勝した 昌和号 の タイムが 平均速度 55km/h 警察の監視の
行き届かない田舎道を相当の速度で飛ばさないと、?  

レース中に「あ、パレード中に」 スピード違反で怒られた 選手も出たり、
して 日本での初  ツーリング トロフイー 「TT」 は
いろんな 面白い逸話を残している。 国産 19メーカー 57台 が 参加した。

伊藤静男

名古屋TT には12才の レーサもいた。

多分 伊藤 史朗と 同じぐらいの 年頃だったとおもう、 
パール号の製作所の 御曹司、山下護祐、 
当時名古屋の 熱田球場で年に1回 お祭りに開催される
ダートトラツクレース、のアイドル であった 
そのライバルにもう少し年下の伊藤 憲尚「ケンショウ」  
が居た どちらも  20才を過ぎたころは、

MFJ のトップクラスの レーサーになっていたのだが、

山下くん まだ12才 まだ免許も有る訳もない、 が腕自慢、走りたくて我慢出来ない
そこで 始めの車検は 替え玉の大人、第一チェツクまで先回り、そこからは
山下くんが走って 29位 で完走した、 でも何処からもクレームが出なかったそうだ。

昭和28年(1953 3月)の出来事である。

一方 英国マン島TTレースではこの年 ノートンが155,85km/h
で優勝している   伊藤史朗がマン島で250ccクラス2位に 成るのは此れから
10年先の話になる。

昭和28〜31年 1953〜1956 この間に一方富士山麓では4年間
富士登山レースが年1回 開催されていた。 56年には伊藤史朗もヤマハ
で、 出場しているが  成績は不明である


こちらは 観光開発を旗印にした 今なら富士山へオートバイで駆け上がる?
「とんでもない」 で終わりだろう、  が当時は『観光誘致』が先だったようだ

富士吉田からスタート  富士登山口二合目めがけて 石ころのダートを2台
ずつ インターバルスタート。 マン島TTのスタート方式を 踏襲してますね。

今でわ5合目までバス観光だが  当時のオートバイにしてみれば大変過酷
な耐久レースだった ここでも軽二輪が 主役 で4ストは150cc 2ストは
90cc こんな規定は有ってもクラス別け 無し 公道だから ライト、 ホーン、
は、当然必要です。 とにかくオートバイで競争出来るなら、 なんでもハイハイ、

で 名古屋TTで優勝した、昌和号は基準のバッテリを積んで居なかった為
最高タイムを出しながら、 失格でした。 その代わり『最高タイム証明書』??
が出たそうな。 勝ったのはオートビット号、  モナーク、ホンダ等を押さえ
第1回富士登山レースを制した。 その後も1956年まで このレース続いた、

この間に ヤマハは 強力なチームを育成していた、

伊藤静男

昭和30年11月 1955年 「第1回全日本オートバイ耐久ロードレース」
通称, 第1回浅間高原レース

まだ名古屋TT以来たった3年  でも・・・

すでに 日本は バイク「エンジン付き二輪車」 の生産量では ドイツ イタリヤ 
フランスに次ぐ 世界4番目の生産国にのし上り、トップに手の届く所まできていたのです。

但し 50年以上の歴史のある ヨーロッパの製品に較べると、まったくあらゆる面で
比較に成らない程劣っていたのです。 この大きな差を埋め、1日でも速く世界レベルに、
そして海外市場に進出しよう。 これが オートバイメーカーの構想でした。

レースは今も昔も最高の実験場です技術向上の近道です、

浅間高原レース場もまた2級国道を含む 1周 19,2kmのコース

浅間山麓です 当然舗装なんか1ヶ所もありません、 火山岩のくだけ散ったざくざく
道を踏み固めた 今で言うならエンヂュウロー フラットダートかな、ここから鈴鹿まで
8年の間 日本の勇者たちは、国内では、ずうーっと ダートやダートに近いレース場を
走りまくったのです、 ロードレースと言う名のダートコースで,懸命に走り続けた

レースの開催が,11月と言うのも?寒い浅間で人の少ない時期ならばの条件付きの
開催許可だった。

と,書いてきましたが,レースは、オートバイ屋さんの、 オートバイによる、
オートバイ屋さん達だけが参加できるレース、なんですよ,
まだアマチュアライダーの皆さんは、お呼びでない時代でした。

この1955浅間高原レースも メーカー対抗です  もうホンダドリームが優勝を
予想されていた、 国道は含んでいてもここではもう保安部品は不要でした
でも、いかに小さな部品と言えどもすべて国産を使用すること。 
これは運輸省,つまり国からの命令でした。

ホンダは250cc OHCシングル ドリームSA 10HPを チュンUPして
5台用意して万全 と見られた,
しかし  結果、勝ったのはOHV 8,5HPシャフトドライブの、
いかにもジェントルな、ライラック と 16才の少年 伊藤 史朗だった

ふみお少年は タイム1位と判ると同じ頃 そのゆくえが? 
報道陣は困りはてていた。
彼は親戚筋のおばさん と125ccの レースをのんびり見学していた。

これは故酒井文人氏の懐古記 だが 無言の伊藤史朗に代わって おばさんは
『この子は どうしても 勝つ って言い切ってたんです、ゆうべも 勝たなければ
「浅間山に飛びこんでやるって」 なんて言ってたんですよ

HONDAのハイパワーは 浅間の山がきらったのか? 19才の谷口尚己は2位だった
谷口がマン島を走るのはこの4年後で 伊藤 史朗がマン島で8位になるのは
5年後の1961です。
1955-11.jpg

第1回浅間レース ライラック 250 で勝った 伊藤史朗少年 16才です。

伊藤静男

1956年の 伊藤史朗

浅間高原 レースは タイムトライアルだったけど そのタイムは、お役所から
発表を硬く禁じられてました。 公道がコースのなかに含まれていたからです
公式順位 は 2位は ○秒遅れ と言うぐあいで 気合抜けを感じたもんです。

1956年は 実はわたしも 伊藤 史朗 が何をしていたのか、分らないのです
ただ、 丸正ライラック は レース活動に ヤマハ ホンダの様に積極的では
無かった、 らしい 『しかし1959年浅間までライラックはファクトリーを走らせていた』

伊藤史朗はヤマハに嘱託契約で 故 望月氏や 野口氏に しごかれて居たとおもう?

伊藤 史朗の父上 伊藤 昇氏は作曲家で、 山田耕作氏に師事していた、
「ふみお」も 山田耕作氏 が名ずけ親だそうで、その話しはサイクリストに載って
居た、 昇氏の手紙によると、 ヤマハチームで 56年の 富士登山レース
に出場しているが、 理由はわからないが、完走していない、

そして 1956年10月から 57年4月まで 浜松のプロオートレーサー登録して
いました、が 57年 の浅間火山レース出場の為プロ登録を抹消している。

1957年初夏に 浅間牧場のなかに  9,351km の 自動車テストコースが 完成した 
こんどは  公道はふくまれていません。そして、 このコースで ダートではあるが、 
本格的「スピード制限無し」の レースが 始まったのです。 
ただし未だアマチュアライダーは お呼びではありませんでした。

伊藤静男


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